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「中陰の花」玄侑宗久

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「中陰の花」玄侑宗久
第125回芥川賞受賞作


わしは本を読むと、気になった箇所や
勉強になる箇所には付箋をつけておく。あとで読み返すときに分りやすいように。
本との出会いは邂逅なんでしょうか。
短編小説で、これだけ付箋がついたものはない。

「おがみやさん」の死をきっかけに、曹洞宗僧侶の主人公が
中陰(あの世とこの世の中間)を見つめなおす。
仏教の教えと霊的現象は別なのですが、
僧侶である作者が修行と体験、勉強で得た境地と
それ以外の事象について科学的根拠を織り交ぜながら
日常の出来事を通して描かれています。

その中で、日頃から疑問に思っていて答えを得られなかった
事柄について、示唆を得たような気がしました。
そのいくつかについて、自分の考えた事も交えて紹介したいと考えます。


(その1)
死後の世界について

極楽は信じれば、ある。信じられなければ、ない。

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そのとおりやんけ。
般若心経の空の心に通じるか。

阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに説かれている。
あれは「ある」というのが前提になっているのか。

人は死んだらどうなるんか?
仏教では基本的には質量不変の法則で考える。

死ぬと魂はどうなるのか。

魂をコップに入った水とする。
コップの水が蒸発する。
すると水蒸気はしばらくあたりにある。
それが中陰と呼ばれる状態で、この世とあの世の中間

それから水蒸気はどんどん広がり、
空いっぱいに広がっていく。
それをインドではシューニャと呼んだ。

世の中の全てのものは膨らみ広がりつつある。
このシューニャという言葉が中国で「空」という言葉になった。
宇宙が膨張している学説は、これを仮設にして研究されたそうな。

コップの中の水はなくなったけれども、
この地球上からはなくなっていない。

あるけどない、ないけどある。
う~む、般若心経やなあ。

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一休宗純は、
闇夜に湖に船を浮かべて座禅しているとき鵺の鳴き声を聞いて大悟した。
鵺は黒いから見えない。でも声は聞こえる。
あるけどない。ないけどある。
http://okirakudojyo.blog93.fc2.com/blog-entry-165.html



魂は微塵という大きさになり、
更に七つに分かれて極微(ごくみ)と呼ばれるものになる。
それが仏教での物質の最小単位で、
それは素粒子と同じ大きさなんですと。

素粒子を構成しているもっと小さなものがあるが、
それ以上は物質ではなくてエネルギーである。
「空」というものを一種のエネルギーとして捉える。

で、エネルギーの状態まで戻る事が「成仏」ということで、
再生可能な状態になって「輪廻」につながる。

仏陀は輪廻の事は語らなかったが
龍樹以降、いつの間にか輪廻思想に取り込まれてしまっているよね。

司馬遼太郎の「十六の話」によると、
お釈迦さまが現代日本の仏教経典を見たら、
「わたしはこんなこと言っていないんだけどもなあ・・・」
と言われるそうです。


(その2)
魂は千里を駆けるといいます。

極楽浄土は十万億土のかなたにあるっていうけれども、
そこまでの距離を四十九日かけて行き着く場合の速度は、
秒速三十万キロだそうな。

つまり光速

千里どころではないなあ。
エネルギーの状態であればそれは可能かもしれんて。

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雨月物語の「菊花の約」にも魂が千里を走り約束を果たした、
という物語を読んだ覚えがある。

すすすると、如来や菩薩はエネルギーの状態なんでしょうか。
凡下にはエネルギーなんて見えないから、
イメージしやすい形にした姿が仏の姿なんでしょうか。



(その3)
あらゆる物質は、分子の中に原子があり、
原子の中では原子核の周りを電子が廻っていて初めて物質化し、
目に見える状態になる。


電子に束縛されていない原子核の中の中性子と陽子は物質化していないので
瞬時にどこへでも移動できる。
そしてその中性子の中に「意識」が宿っている。
なのですべて見える。すべて聞こえるそうな・・・
「虫の知らせ」というのはこの中性子同士の反応だそうな。
魂は・・・


(その4)
憑き物について
霊というのは、何かに気になりだしたら、
そのことにずっと気になっている頭が好きで、住みやすい。
煩悩に囚われている人のことでしょうか。

しかし禅宗の僧侶はいちばん憑きにくいそうな。
パッパッと思考が切り替わってしまう頭は住みにくいんだって。

座禅をしている時に雑念が湧いてきても、右から左へすぐ流す。
悟りの境地に至ったとしても、それすら捨てろと言われる。
全ての事に執着せずに捨て去る。

放下著(ほうげじゃく)とはこのことか。
(臨済宗『五家正宗賛』の趙州和尚の章)
禅宗の僧侶は座禅をしているので頭の切り替えが早いのか。
瞑想をしている人も同じ境地なんでしょうかね。


(その5)
死の直前、光に包まれる。

酸欠状態になると、網膜の中の酸欠に強い細胞の働きが際立ち
光に包まれたような体験をすること・・・
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死ぬとき、どうしてもこの酸欠状態を通過するために
死ぬ前に光に包まれるというのは、ごく自然な科学的現象なのだ。
死ぬ人は光に包まれて恍惚として死んでいく。

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極楽浄土からのお迎えは光り輝いているんかなあ。
内海源助は最後のとき、
光が空から降りかかり恍惚とした気分に陥るのを感じながら命果てた、
と書かれてあったなあ。
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高校のときに限界を超えた激しい稽古でぶっ倒れたとき、
目がチカチカした経験がある。

オウム真理教のやっていた怪しい修行
「水中クンバカ」
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長く息を止めることによって酸欠状態を作り
光に包まれたような体験をさせる。
あれ?でもオウムは水中に入る前に酸素テントに長時間入っていなかったっけ?
でも長時間水の中で極限状態を作っていたか。


(その6)
幻覚について
禅宗の摂心の際には、睡眠が極度に制限され、精神が疲れ果てて
幻覚を見るという。

光が自分の中に入ってきたり、すべてのものと繋がるという体験をする。
それを「悟り」と表現する宗派もあるが、禅宗では
「座禅をしているといろんな幻覚を見るが、そんなものに騙されてはいかん。
あくまでそれは幻覚で、それを乗り越えてまた座るのだ」

鮮烈で美しい光景と、それを否定する言葉
これは禅宗でのみ伝えられているのだろうか。
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弘法大師は虚空蔵求聞持法を百日間百万回唱え
明星が口の中に入ってきた、と伝えられるが
禅宗に言わせると、それも幻覚とされるのか。

中学生の頃、満天の星を眺めていたら
何故自分はここにいるのだろう、自分の存在する意味はなんだろう?
と考え、そうしていると意識が宇宙に吸い込まれたような経験をしました。
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いまでもその時の気持ちを覚えています。
自分と宇宙、宇宙と自分が一体化した、と捉えるのでしょうか。
これって、「さとり」を得た状況と言えるのでしょうか。

それ以後は、そういう気持ちを得た事がありません。
大人になって汚れてしまったからでしょうか。

精神科学では10台の頃は、
世界の中にいる自分の位置を発見するような発達年齢に
なるので、そういうことが起こる可能性が多い、ともされています。

さはさりながら、
成長してからは、時間と空間がなくなったように感じることはあります。
それは物事に集中しているとき。
自分でいうと絵を描いているとき。
描くことに夢中になると時間の概念がなくなる。
これもある意味「さとり」に近い感覚なのでしょうか。

また、山登りをしているときに、麓では雑念だらけなのですが
急坂を登るときには登ることしか考えていない。
いや、考えていることもないのだろうか。なにもない。
自分にとってこれが「徒歩禅」にあたる。
だから歩き遍路はやめられない。


本との邂逅は、ある日突然やってきます。
それは本屋の新書コーナーであったり
古本屋の棚であったり
ネットの書籍紹介であったり
実に様々です。

その出会いを大切にしたいから、予算の都合がつく限り
購入するようにしています。
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おきらく道場主

Author:おきらく道場主
柔道弐段剣道弐段腹参段のあやしい絵描きのおやじです。

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