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志村けんと鉄道員(ぽっぽや)

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コロナに散ったコメディアンの志村けん
彼の著書が本屋にあったので一合二合書棚の前を逡巡した挙句、買った。
彼のイメージは「ドリフターズの新人」というイメージが最後までこびりついていました。
なぜかなあ?
多分全員集合!で荒井注の後釜で登場した時のイメージが強烈だったからか。

それはさておき、
著書の中で映画「鉄道員」に出た時の話、高倉健との共演についての部分を読んだら
はて志村けんが出ていたっけ??
その程度の記憶でした。
早速プライムビデオで観てみました。
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ああ、筑豊から流れてきた炭鉱夫の役で出ていたんですね。
昭和とともに使い捨てられていく男を味わい深く演じていました。
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それはいいんですが、
すっかり「鉄道員」に見入ってしまいました。
ラストで泣きました。
久しぶりに映画を見て泣いたなあ。

3人の雪子ちゃん、いい存在感でした。
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夜を挟んで僅か2日間の出来事だったんですね。
雪子がお父さんを連れて行ってしまったのかなあ?
という感傷が残りました。
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立禅と 「ひかりの魔女」

「ひかりの魔女」山本甲士
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巻き込まれ型の小説を得意とするこの作者の物語は
多くの示俊を含んでいてためになります。

表題の小説からは「立禅」を学びました。

立禅(りつぜん)は その名称どおり、立って行う禅で、
瞑想法、気功法になるでしょうかね。

誰でも実践できるシンプルな健身法で、特別の器具も必要なく
ただ立っているだけ。あとはやる気です。

仏教も本質的には立禅を主体として托鉢に始まり、
歩行、沈思、四念処と立禅に依って成り立つそうです。

お釈迦さまが沙羅双樹の下で座って瞑想により大悟されたため
座禅だけがクローズアップされているのですが、
それは立つ・歩く・座る・臥するの中の一形態なのです。

立禅ありて座禅あり、徒歩禅ありて臥禅あり。

わしは座禅の入り口を垣間見た程度であるし、
歩き遍路を通して自分に見合った徒歩禅を行っているが、
まだまだです。

さて立禅とは、
人間の内的パワーを強化し、爆発的な気を養成する。
心身を一つにまとめ、人間の持つ潜在能力を掘り起こす。
本能を覚醒させることで、動物的な反応や動きも可能にする。
武道や武術でも応用できそうですね。

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実践の方法ですが、
両足を肩幅に開き、内股気味で、ひざを軽く曲げる。
上から見下ろして、ひざがつま先より前に出ないくらい。

かかとの下に紙3枚分くらい敷くくらい浮かせ、
足親指の付け根付近に重心を置く。
両腕は顔の高さにあり、大きなボールを抱えるように
両手掌の間は拳1個半空ける円をつくり、指先は開いたまま下にたらす。
頭は天から吊り下げられている感覚で、
視線は半眼のまま、地面と平行でまっすぐ前

心穏やかに自然な呼吸を行う。

肩の力を抜いてリラックスするのが肝心です。
ふくらはぎが緊張してきて、下半身を鍛えるのみならず
両手両足と体幹部の連携機能を向上させて気の力を蓄える・・・

だ・・・・そうなんですが、

5分でも10分でもいいんです。
最初は3分でもかなりキツい。
武術の稽古として行う場合は最低15分必要なんですと。


自然な呼吸というのは、鼻で吸って口から出す、
丹田呼吸法を行います。

ここでお遍路の勤行の際に身につけた呼吸法が役に立ちました。
「十善戒」を三度、一息で唱えるために色々やってみたのですが
下腹に息を溜めてから丹田を意識しながら長く呼気とともに吐き出すと、
一気に三度唱える事ができる。
下腹に意識が向かないと、途中で息が途切れる。

これが臍下丹田呼吸法だったんだあ。

今年の正月に立禅を知って
最初は3分から始めました。
無理は禁物、3分でも脚がプルプルしてきましたが、
そのうち1分、また1分と増やして
2月の終わりの今は10分間できるようになりました。

心なしか階段の昇り降りも以前よりは楽になったような??
それに駅ではエスカレーターを使わなくなりました。
このさき続けていけば、どんな境地に至ることができるのでしょうか。

頭が天に向かって引き上げられているような感じになる、
というのですが・・・
それはいつだろうか。

確かに先日車遍路をしたとき、10番切幡寺の333段の階段では
息切れすることなく一気に登ることができました。
まあ、リュック背負って歩いて切幡寺まで来た訳ではないので
疲れていないといえば、疲れていない。

この検証は焼山寺登りでしてみる事にします。

「中陰の花」玄侑宗久

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「中陰の花」玄侑宗久
第125回芥川賞受賞作


わしは本を読むと、気になった箇所や
勉強になる箇所には付箋をつけておく。あとで読み返すときに分りやすいように。
本との出会いは邂逅なんでしょうか。
短編小説で、これだけ付箋がついたものはない。

「おがみやさん」の死をきっかけに、曹洞宗僧侶の主人公が
中陰(あの世とこの世の中間)を見つめなおす。
仏教の教えと霊的現象は別なのですが、
僧侶である作者が修行と体験、勉強で得た境地と
それ以外の事象について科学的根拠を織り交ぜながら
日常の出来事を通して描かれています。

その中で、日頃から疑問に思っていて答えを得られなかった
事柄について、示唆を得たような気がしました。
そのいくつかについて、自分の考えた事も交えて紹介したいと考えます。


(その1)
死後の世界について

極楽は信じれば、ある。信じられなければ、ない。

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そのとおりやんけ。
般若心経の空の心に通じるか。

阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに説かれている。
あれは「ある」というのが前提になっているのか。

人は死んだらどうなるんか?
仏教では基本的には質量不変の法則で考える。

死ぬと魂はどうなるのか。

魂をコップに入った水とする。
コップの水が蒸発する。
すると水蒸気はしばらくあたりにある。
それが中陰と呼ばれる状態で、この世とあの世の中間

それから水蒸気はどんどん広がり、
空いっぱいに広がっていく。
それをインドではシューニャと呼んだ。

世の中の全てのものは膨らみ広がりつつある。
このシューニャという言葉が中国で「空」という言葉になった。
宇宙が膨張している学説は、これを仮設にして研究されたそうな。

コップの中の水はなくなったけれども、
この地球上からはなくなっていない。

あるけどない、ないけどある。
う~む、般若心経やなあ。

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一休宗純は、
闇夜に湖に船を浮かべて座禅しているとき鵺の鳴き声を聞いて大悟した。
鵺は黒いから見えない。でも声は聞こえる。
あるけどない。ないけどある。
http://okirakudojyo.blog93.fc2.com/blog-entry-165.html



魂は微塵という大きさになり、
更に七つに分かれて極微(ごくみ)と呼ばれるものになる。
それが仏教での物質の最小単位で、
それは素粒子と同じ大きさなんですと。

素粒子を構成しているもっと小さなものがあるが、
それ以上は物質ではなくてエネルギーである。
「空」というものを一種のエネルギーとして捉える。

で、エネルギーの状態まで戻る事が「成仏」ということで、
再生可能な状態になって「輪廻」につながる。

仏陀は輪廻の事は語らなかったが
龍樹以降、いつの間にか輪廻思想に取り込まれてしまっているよね。

司馬遼太郎の「十六の話」によると、
お釈迦さまが現代日本の仏教経典を見たら、
「わたしはこんなこと言っていないんだけどもなあ・・・」
と言われるそうです。


(その2)
魂は千里を駆けるといいます。

極楽浄土は十万億土のかなたにあるっていうけれども、
そこまでの距離を四十九日かけて行き着く場合の速度は、
秒速三十万キロだそうな。

つまり光速

千里どころではないなあ。
エネルギーの状態であればそれは可能かもしれんて。

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雨月物語の「菊花の約」にも魂が千里を走り約束を果たした、
という物語を読んだ覚えがある。

すすすると、如来や菩薩はエネルギーの状態なんでしょうか。
凡下にはエネルギーなんて見えないから、
イメージしやすい形にした姿が仏の姿なんでしょうか。



(その3)
あらゆる物質は、分子の中に原子があり、
原子の中では原子核の周りを電子が廻っていて初めて物質化し、
目に見える状態になる。


電子に束縛されていない原子核の中の中性子と陽子は物質化していないので
瞬時にどこへでも移動できる。
そしてその中性子の中に「意識」が宿っている。
なのですべて見える。すべて聞こえるそうな・・・
「虫の知らせ」というのはこの中性子同士の反応だそうな。
魂は・・・


(その4)
憑き物について
霊というのは、何かに気になりだしたら、
そのことにずっと気になっている頭が好きで、住みやすい。
煩悩に囚われている人のことでしょうか。

しかし禅宗の僧侶はいちばん憑きにくいそうな。
パッパッと思考が切り替わってしまう頭は住みにくいんだって。

座禅をしている時に雑念が湧いてきても、右から左へすぐ流す。
悟りの境地に至ったとしても、それすら捨てろと言われる。
全ての事に執着せずに捨て去る。

放下著(ほうげじゃく)とはこのことか。
(臨済宗『五家正宗賛』の趙州和尚の章)
禅宗の僧侶は座禅をしているので頭の切り替えが早いのか。
瞑想をしている人も同じ境地なんでしょうかね。


(その5)
死の直前、光に包まれる。

酸欠状態になると、網膜の中の酸欠に強い細胞の働きが際立ち
光に包まれたような体験をすること・・・
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死ぬとき、どうしてもこの酸欠状態を通過するために
死ぬ前に光に包まれるというのは、ごく自然な科学的現象なのだ。
死ぬ人は光に包まれて恍惚として死んでいく。

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極楽浄土からのお迎えは光り輝いているんかなあ。
内海源助は最後のとき、
光が空から降りかかり恍惚とした気分に陥るのを感じながら命果てた、
と書かれてあったなあ。
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高校のときに限界を超えた激しい稽古でぶっ倒れたとき、
目がチカチカした経験がある。

オウム真理教のやっていた怪しい修行
「水中クンバカ」
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長く息を止めることによって酸欠状態を作り
光に包まれたような体験をさせる。
あれ?でもオウムは水中に入る前に酸素テントに長時間入っていなかったっけ?
でも長時間水の中で極限状態を作っていたか。


(その6)
幻覚について
禅宗の摂心の際には、睡眠が極度に制限され、精神が疲れ果てて
幻覚を見るという。

光が自分の中に入ってきたり、すべてのものと繋がるという体験をする。
それを「悟り」と表現する宗派もあるが、禅宗では
「座禅をしているといろんな幻覚を見るが、そんなものに騙されてはいかん。
あくまでそれは幻覚で、それを乗り越えてまた座るのだ」

鮮烈で美しい光景と、それを否定する言葉
これは禅宗でのみ伝えられているのだろうか。
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弘法大師は虚空蔵求聞持法を百日間百万回唱え
明星が口の中に入ってきた、と伝えられるが
禅宗に言わせると、それも幻覚とされるのか。

中学生の頃、満天の星を眺めていたら
何故自分はここにいるのだろう、自分の存在する意味はなんだろう?
と考え、そうしていると意識が宇宙に吸い込まれたような経験をしました。
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いまでもその時の気持ちを覚えています。
自分と宇宙、宇宙と自分が一体化した、と捉えるのでしょうか。
これって、「さとり」を得た状況と言えるのでしょうか。

それ以後は、そういう気持ちを得た事がありません。
大人になって汚れてしまったからでしょうか。

精神科学では10台の頃は、
世界の中にいる自分の位置を発見するような発達年齢に
なるので、そういうことが起こる可能性が多い、ともされています。

さはさりながら、
成長してからは、時間と空間がなくなったように感じることはあります。
それは物事に集中しているとき。
自分でいうと絵を描いているとき。
描くことに夢中になると時間の概念がなくなる。
これもある意味「さとり」に近い感覚なのでしょうか。

また、山登りをしているときに、麓では雑念だらけなのですが
急坂を登るときには登ることしか考えていない。
いや、考えていることもないのだろうか。なにもない。
自分にとってこれが「徒歩禅」にあたる。
だから歩き遍路はやめられない。


本との邂逅は、ある日突然やってきます。
それは本屋の新書コーナーであったり
古本屋の棚であったり
ネットの書籍紹介であったり
実に様々です。

その出会いを大切にしたいから、予算の都合がつく限り
購入するようにしています。

月をさすゆび

「月をさすゆび」
原作:永福一成 作画:能條純一
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久々に読書感想文

前から気になっていたビッグコミック連載の漫画
西本願寺で輪袈裟と日常勤行聖典を求めたのが縁で
急に読みたくなって全4巻買って読んだ。
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俗人が僧侶になる勉強をして得度をするのが
物語の背骨となっていて、
これに男女の恋愛物語が絡められている。
物語の背景は浄土真宗本願寺派(西本願寺)です。
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わしはお遍路を始めてから真言宗寄りになっていたんですが
父親の死からこちら、葬儀や法要を通して
浄土真宗からの振り戻しが時々ある。
でも仏教を勉強すればするほど、
根っこはひとつに帰着することがわかってくる。
すべてはお釈迦さまから出た言葉
「仏教者」として細かなお作法に拘る必要はない。

真言宗で得度をしたら・・・とよく言われるのですが
今のところそんな気持ちはない。

今、自分のできる環境で、できる範囲で仏教と関わっていけば
そのうち道は指し示されていくでしょう。
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閑話休題

物語の中で色々と教えられる事が多い。

そのなかでも「わかる」ということについて


「わかる」
というのは4つ種類がある。

「わかったことがわかっている」
「わからないことがわかっている」

「わかったということがわからないでいる」
「わからないということもわからないでいる」

前者2つは「知識」でわかる理解
後者2つは「感覚」直感とか体験的なもので、
「わからない」ものが突如として「わかる」ことがある。
これが「さとり」

でもその「さとり」は持続的なものではない。
お釈迦さまは菩提樹の下で悟った法楽に浸っていたんでしょうね。
しかし凡下には
幸いに悟りが訪れても一瞬
でも一瞬だっていいじゃないか。

その一瞬を得るために、
「行」を行う必要がある。
座禅であったり滝行であったり護摩行であったりする。
そのほかスポーツを通したり、武道を通したり
芸術だったり、日常の作務だったり
目の前にあることに誠心誠意向き合うのが「行」だと思う。

わしは「絵」と「徒歩禅」
これをきちんとやっていこうと考えます。
一瞬でも何かを感じられるように。
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明星に歌え 関口尚

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若者が四国八十八箇所を歩いて廻る、という
わしの好きな青春群像小説です。


四国お遍路ツアーに参加した大学生の玲
全国の大学から集まった学生が7人の班で夏の日に歩き遍路の旅をする。
天真爛漫な太陽、ひねくれた態度の剣也、誰とも打ち解けない花凛
神経質なコーディネーターなどなど・・・
10歳以前の記憶がない玲だけでなく、
それぞれが事情を抱えている様子。
過酷な道中、予期せぬトラブルも生じ、脱落せざるを得ない者も出る。
長い長い道中の中、
様々なトラブルや事件を通して自分の抱えている悩みや問題と向き合い
軋轢も和解もあり、やがて結束する。

旅と若者の成長、どこにでも転がっていそうな物語ですね。
海外旅行でも、日本縦断でも、なんだっていいんです。
で、この物語の舞台背景がお遍路というのでビットが立ち、
興味津々で読み始めました。

これが結構面白い。
読み始めたらとまりませんでした。
作者は実際に歩いて廻ったのかも?とも思いました。
登場人物が歩いて廻らなければ物語は成立しない。
敢えて不便さを享受し、肉体に鞭打って自分自身の脚で
暑い夏の日を40日以上を歩かねば
若者の成長の物語にはならない。読み手の心には響いてこない。

歩き遍路をやった事のある人にとっては共感も得られる。

物語がハッピーエンドで大団円、ならばいいのですが
将来への期待感も残しているのが小気味いい。
そのあとは読者が自分で物語を紡ぐ楽しさもあるから。


若いやつらって、いいなぁ~。
過去10年間、
「鯖街道キャンプウオーク」に関わってきて
若者達の成長や失敗や挫折を身近で見てきた思い出が
切なく蘇ってきましたがな。
2009[1]
プロフィール

おきらく道場主

Author:おきらく道場主
柔道弐段剣道弐段腹参段のあやしい絵描きのおやじです。

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